Bulletin «Педагогика ғылымдары» сериясы



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Байланысты:
Майлыбаева Вестник

Ключевые слова:
И.Алтынсарин, модернизация, система образования, история Казахстана. 
イブラヒム・アルトゥンサリンの啓蒙思想に関する一考察
1.はじめに
アルトゥンサリンのテーマについて特にひろく取り上げられるようになったのはソ連時代
である。当時、この人の色々な業績について研究論文が 300 以上書かれた[1]。文学者のアウ
エーゾフ、スレイメノフ、タジバーエフ、デルヴィサリン、ベイセンビエフ、ジュマグロフ
などといった優秀な研究者たちである [2]。コサッチはこの活動家について歴史学上行われ
た研究をソ連以前、戦前、戦後の期間に分割した [3]。彼の指摘によると、ソ連時代のアル
トゥンサリン評価は、進んだロシアの影響のもと常に平和の守護者の役割を担ってきたとい
うことである。さらに当時のソ連イデオロギーの存在を背景に二国間の友情の理想的シンボ
ルとなっていったことである。
独立以降この啓蒙家の役割にたいする理解はいくぶんニュアンスが変わってきたが、しか
しいまでもその有効性を失っていない。彼の業績に関する研究会が開かれ、研究論文も次々
に発表されている[4]。しかしアルトゥンサリンのイメージは政治的なニュアンスが変化して
おり、現在では新ユーラシア主義の一環として引用されることが多い[3,5]。また、より重要
なこととして今日主な関心を寄せられているのが、彼の業績のなかでもカザフスタンの民族
主義的側面である。この文脈において特に注目されているのが 2017 年の終わりから始まった
カザフ語書式の改革である。キリル文字からアルファベットへの移行がおこなわれている。
その例として、パヴロダル市で 2017 年に「精神復興」プログラムの一環として出版された一
連の研究論文には、カザフ語で書かれた 33 の論文が提出されている。それらはどれもこの啓
蒙家の文学作品におけるカザフ文学の語り方についてのものである[6]。アルトゥンサリンを
記念してカザフスタン国立銀行は 2017 年 10 月 25 日に、銀で鋳造した四角い 500 テンゲの記
念硬貨を発行した(「カザフスタン芸術の造形」シリーズ«Ы.Алтынсарин»)。そ
こにはこの啓蒙家の姿が色つきでモザイク彫刻されている。
学術分野でのアルトゥンサリンのイメージは多くの分野に秀でた才人といったものである
が、ときどき矛盾も孕んでいる。政治的には一方で帝政ロシア政治の先導者である。が、他
方では民主的社会改革者でありユートピア的人道主義者である。経済的には遊牧社会から定
住化への主導者である。言語学的にはキリル文字をベースにした新しいカザフ語書式への変
革者である。また、幼児文学の創始者でもある。民族学的には、カザフ民族の慣習と伝統の
研究者であり、「オレンブルク省のキルギス人における求婚と結婚の慣習概説」や「オレン
ブルク省のキルギス人における埋葬と追善の慣習概説」といった作品があるが、その批判者
でもある。そして最後に教育学の面では秀でた啓蒙主義者、教育改革者、新しい学校の設立


ВЕСТНИК КазНПУ им. Абая, серия «Педагогические науки», №1(57), 2018 
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者である。さらに言語と倫理の教科書も書いており「キルギス読本」第一課や「ロシア語初
級指導要領」、「シャライトリ・イスラム」といった作品がある。
このようにすべての方面においてアルトゥンサリンは常に主要なアクターとして登場して
いる。当時のカザフ社会の法律や基準に反するような新たなムーヴメントを持ち込む人物で
もあった。彼の精力的な活動は反動的で改革主義的性格をそなえていて、その大半の期間が
1870 年から 80 年代にかけて行われたものであるにもかかわらず、100 年を過ぎた今日でもそ
の反響はとどまるところを知らない。もちろん、アバイやヴァリハノフと同様にアルトゥン
サリンも同時代における輝かしい代表的人物の一人であり、その次の世代の近代化の背景と
なって彼のイメージは影響していくのである。
当論説において私は歴史的文献や「オレンブルグ文書」に載せた彼の論文、「キルギス読
み本」、手紙、彼に関する証言をもとにカザフ民族の教育と啓蒙に関するアルトゥンサリン
の思想について分析を試みたい。この分析ではある仮説が提示される。それは、アルトゥン
サリンが近代化現象そのものとして、スペンサーの近代化概念の二項対立原則の追認をして
いるのではないかということ [7]。また同様に相対的なロシアやカザフ民主化への抵抗と受
容という境界的な立場に彼が立っていることである。この点に基づき、私はこの啓蒙家の境
界的性格に光を当てた資料に特に注目し、また彼の次世代における近代化の成果とその歴史
的意義にも目を向けるつもりである。
2.歴史的な背景
1870 年代ロシアへのカザフスタンの編入が完了し、中央アジアの大多数の国々がツァーリ
ズムに服従した。そこで帝政ロシアはこれら辺境地域の全面的植民地化とその天然資源の有
効活用にのりだす。これらの出来事の一部として、カザフスタンの学校網の拡張、カザフ語
の学校におけるロシア語表記の導入といった課題が持ち上がった。
しかし政府は国民の啓蒙というスローガンをつかいつつ用心深くそのロシア語化政策をおこ
なった。ロシア語書式の導入の必要性は、タタール語が「キルギス語の自然さを傷つけている
」(イルミンスキー)ことから求められていることである。独自の書法を持たないカザフ語は
何らの変更も必要とせずにロシア語のアルファベットに適応できると説明されている。帝政ロ
シアの官僚はその限度を推し量って、カザフ語の自然な純粋さを守るために、カザフ平原の「
タタール化」に対して闘っているなどと述べている。
3.イブラヒム・アルトゥンサリンの近代化構想
1879 年アルトゥンサリンはトゥルガイ州の国民学校の査察官となって国民の啓蒙活動に熱
心に取り組み始めた。国民学校での査察官としての職務期間、アルトゥンサリンは 4 つの2
年制学校、7 つの集落学校、オルスクに教師の学校、トゥルガイに工業学校、イルギスに女子
校を開校することができた。しかし学校で獲得した生徒数に彼は不満をもち全村落に学校を
開校するという課題を立てた。アルトゥンサリンはカザフ遊牧民村落の発展の見通しから、
未来の遊牧民が定住へ移行していくことを確信し、自身の啓蒙活動によってカザフ民族の文
化的、経営・経済的進歩を全面的に支援した。 [8]
この啓蒙家は述べている。「キルギス国民は勉強を始めたばかりだ。だが、であればこそ
その学習はなによりも文字から始めなければならないし、その文字教育のために初等ロシア
・キルギス学校は役割を全うしなければならない」アルトゥンサリンはカザフの若者たちの
養育のためにその作られた学校を利用しようと努め、先進的なロシア文化への畏敬の念やそ
の国民に対する感謝の念を育てようとした[9]。アルトゥンサリンはとくに純粋なロシア人を
学校に配置しながら、こう述べている。「キルギスの教師たちが学校を管理しても、アジア
的要素が学校に残らないように」[10]。
ロシア・キルギス学校の教育計画の作成において、アルトゥンサリンはカザフ社会の必要
性を考慮し、学力と言語の習得だけでなく手工業の成長の必要性にも目を向けた。イリミン
スキーへのある手紙の中で「私とヴァシーリー・ヴラジーミロヴィチはキルギスの初等ロシ


Абай атындағы ҚазҰПУ-ң ХАБАРШЫСЫ «Педагогика ғылымдары» сериясы, №1(57), 2018 
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ア語学校で優秀な者を定期的に実習校へ派遣しています。そこでは彼らに①ロシア語の教育
法と文法を教え、②かんたんに手に入りやすい畜産品から皮革、石けん、ろうそく、毛糸を
つくる実習などもおこなっています」[11]。
つまりこれは畜産製品加工のことをさすが、移行期間におけるカザフ人の経済活動の進展
について述べられたものである。これに関しては 1884 年 9 月 27 日にトゥルガイ州提督への
報告がある。その中で述べたことによってアルトゥンサリンの考えははっきりしている。科
学の研究は産業活動から孤立しても無意味であると繰り返している。彼の考えによれば一般
教養は「知的なさらなる産業発展のための唯一の手段」と見なされるべきである。だからこ
そ、この啓蒙家は生徒に一般教養科目とともに「応用実習の知識」を与えようとしたのであ
る[12]。
カザフ定住化への移行をサポートする手工業学校のアイディアをアルトゥンサリンは生涯
で繰り返し試みている。1883 年、トゥルガイで「ヤコヴレン手工業学校」が開校したときに
アルトゥンサリンはこう述べている。「子供たちの教育はそばにいる父親である私たち自身
が見守らなければなりません。ロシアやそのほかの国民みながやっているようにできるだけ
の範囲で自分の力に見合った貢献をするのです。彼らは知識の力によって電報のような装置
まで手に入れ、1000 ヴェルスタ離れた遠くまでもニュースを届けることができます。また蒸
気機関車によって馬やラクダに頼らずに人や重いものを一晩で 1000 ヴェルスタ先まで運べま
す。」[13]
アルトゥンサリンはカザフ人が手工業を学んで事足れりとしなかった。専門学校や高等教
育機関まで視野に入れていた。1888 年 11 月 25 日の提督宛の手紙であることを認めることに
なるだろうと書いている。それは「専門学校でキルギス人に有用な教育を受けさせることが
有効であり、それによって教育課程終了後にその専攻で、例えば農業アカデミーなどで、学
習を続けられます。その結果、農業科学分野における指導者や教師になり国民を教育できる
人材になれるといったことです」[14]。
カザフスタンが植民地状態であったため、教育機関単位で教育の継承を行うというアイデ
ィアの実現はとても難しかった。それにもかかわらずアルトゥンサリンは力のかぎりを尽く
した。帝政ロシアの関心事と言えば、せいぜい通訳や事務員の補充か植民地経営に役立たせ
る程度のものだった。国民の自覚を呼び覚まし、より高い行政単位を担当できるような独立
した市民といったものではまったくなかったのである。
「キルギス読本」の中には多くの情報が含まれている。科学の発展、生活、習慣、民族の
風習、教訓的な物語や詩などである。革命以前に教育を受けたほぼすべてのカザフのエリー
トたちがこの本によって学んだのである*。この読本に含まれる多くの作品、たとえば「金持
ち息子と貧乏息子」「ユルタと家」、寓話「きれいな泉」などが現代の教 科書や読本に含ま
れている。ロシアの教科書に学びながらアルトゥンサリンは自分の教科書の構成を整理して
いった。
・教科書の言葉のきれいさ。
・伝統、暮らし、心理的・民族的特徴の反映。
・言語の变述スタイル(言語は明解で分かりやすく、だが考えが民族的な好みに合致して
いなければならない)。
・教科書の内容は興味深く、役に立つもので、発展的でなければならない。
アルトゥンサリンは「キルギス読本」の一ページ目で若者に向けて教育の重要性を呼びか
けている。アルトゥンサリンは同胞にむけてわかりやすく熱心に語っている。科学技術が社
会生活に果たす絶大な意義について。機械や道具の利用によって、人類の労働が軽減される
ことやさまざまな奇跡的なことが行えるようになることについて。
遊牧生活や大規模畜産業においてカザフ人の生産活動はまったく自然の気まぐれにたよって
いた。自然災害が突然襲ってくることも、唯一の富である家畜を失うこともあった。アルトゥ


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ンサリンは啓蒙は富に勝ると「キルギス読本」で教えていた。彼の考えでは「財産を失っても
知識が支えになる」のである。
こうしてこの啓蒙家は人の実際の生活における科学と知識の重要性を高め、同時代の人々
に向けて科学の勉強が生活に欠かせないことを理解させていった。啓蒙思想はその当時も存
在しており、間違いなく有用なものであった。しかし実生活でそれを実現しようとする試み
では大きな困難を味わい、越えがたい障害に出くわすこともあった。部落での学校網拡張の
難しさは、政府に対する否定的態度や住民の保守的姿勢だけでは説明できない。学校組織の
根本的な教材不足、教員の能力やカザフの遊牧村落で働きたいという希望者の不足などであ
る。
アルトゥンサリンの進化論的信念の帰結として、絶え間ない国民の啓蒙だけが唯一の変化
の道であり、誇張なしで当時のカザフスタン社会を近代化する方法であると彼は考えていた
。そこには知識の拡大、教育の拡充だけでなく、大衆の暮らし自体の変化、精神とステレオ
タイプ的考え方や道徳観の変化が含まれる。
アルトゥンサリンは気楽な夢想家ではなく他の誰よりも深く考え、カザフ社会の時代遅れ
になった困難と矛盾、自分たちの民族の短所や欠点を理解していた。しかし彼は新しい価値
観や生活様式を法令で植えつられるとは思わなかった。過去の族長的伝統は根づよく、それ
を一気に変えてしまうことはできない。そのためアルトゥンサリンの考えでは、カザフ民族
の歴史的進歩はロシア文化へのコミットとしてあらわれ、長期的なプロセスになる。[15]
4.おわりに
このようにして啓蒙主義者の進化論的視点の二つ目の結論として言えるのは、彼がそれぞ
れの国や民族の成長、文明、文化のレベルの不均衡を把握していたことである。カザフ社会
の後進性については今は避けられないものだとしても昔からのものでも永遠のものでもない
ととらえていた。
アルトゥンサリンの目に映る歴史観は彼が社会システムの変化を予感していたことにあら
われている。システムというのはここではカザフ国民のことであるが、その変革は政府機関
主導の必要不可欠な働きかけのもとで可能であるという見方である。広い意味では「政府さ
まざま」と理解されうるものであり、ただ単に国家的・政治的に多様な形態をとっているだ
けなのではない。ここではまさに個々人の創造性を信頼しているアルトゥンサリンの姿を見
ることができる。その本質は歴史の場面にあらわれる唯一の参加者のことである。
<参照文献>
1 Ахметов Т.Ә., Оспанов С.О. Ыбырай Алтынсаринмұрасы: библиографиялық кӛрсеткіш – Қостанай: ҚМПИ, 
2016. – 237 с.
2. Ауэзов М.Традиции русского реализма и казахская дореволюционная литература. – Дружба народов, 1949, № 2. 
– С. 123– 139.
3 Сулейменов Б.С. Жизнь и деятельность Ибрагима Алтынсарина (1841 –1889). – В кн.: Алтынсарин И., Собр. 
соч., т. – Алма-Ата, 1975. – С. 7–48.
4 Тажибаев Т. Педагогическая мысль в Казахстане во второй половине XIX века. – Алма-Ата, 1965. – С. 93–105.
5 Дербисалин А.К. О литературном наследии Ибрая Алтынсарина (пер. с каз. Е. Лизуновой). – Алма-Ата, 
Казгосиздат, 1957. – 119 с.
6 Джумагулов К.Значение художественных переводов И.Алтынсарина. – Ученые записки Караганд. пед. ин-та, 
1962, т. 3. Вып. 1. –


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